適当に生きることと丁寧に生きることは意外と一致していたりする


適当に生きるというと、いかにもいい加減で丁寧さの真逆の選択のように思われがち。

確かにその字面だけを見ればその通りだし、国語のテストであればそれで正解なのだろうと思う。

しかしながら、人が生きるということに関していうと、必ずしもそれは正しい判断とは言えない。

大前提として、人間にはキャパシティの量というものがあるので、すべての物事に丁寧に生きるということは不可能。

それは一見して丁寧に見えるようにあっても、効率やプライオリティが無視されているということであって、単なる思考停止にすぎない。

丁寧さというのは、思考を突き詰めるということでもあるので、当然ながら切り捨てるものの選択も必要になる。

そしてその選択を行っていくと、必然的な結果としてある部分は非常に適当な生き方になる。

例えば私の場合であれば、仕事は丁寧に行っても、自分の旅のルート決めであるとか、身の周りのことというのは、比較的適当に暮らしている。

例えばヨーロッパを旅する場合であれば、3ヶ月弱の期間、何度も移動を繰り返しながら旅をしていくが、そのルートをまともに決めてヨーロッパを訪れたことがない。

航空券だけ取ってやってくるので、どこから入ってどこから出るかということだけを決めて、その間のルートというのは適宜決めていく。

その事実を持って、私が丁寧に生きているとはとても判断できないはずだが、実際問題としてもし仮に、念密に旅のことを計算して事前に計画を立てていたりしたら、仕事をおろそかにするのか、あるいはもっと変化や行動を減らすのかを二者択一になる。

そんなことをするぐらいであれば、適当に行き当たりばったりで、旅を進めながら仕事は丁寧にやっていく方が、誰にも迷惑もかからないわけだし、プロとしてあるべき姿だと思っている。

逆に言えば、海外旅行なんて慣れてしまえば、ある程度どうにかなるもの。

しかも私が言っているのは、アフリカやどこかの未開の地なわけではなく、戦乱のさなかにある国でもない。

あくまでも先進国であったりとか、あるいはそこまで進んでいなくても、一応はヨーロッパの端くれと言えるような国なので、国内移動ぐらいであれば、そこまで難易度が高いわけでもない。

ブルガリアのような例外をあるにしても、基本的には簡単に国内や隣国への移動ということは可能だし、大げさに考えるようなことではない。

丁寧さと適当さというのは、結局バランスの問題であって、全てを丁寧にやっていくというのは、無理なのではないかという風に最近は感じている。

人間には我慢の総量というものがあって、これは二十日大根や、クッキーを使った実験でも証明されているが、ある出来事にたいして我慢をしてしまうと、それは生活であったり、仕事であったり、そういった別の部分で本来することができた我慢の量を減らすことになってしまう。

つまり忍耐強さというのは、無制限の資質ではなくて、あくまで有限の資源であると考えるべきもの。

そう考えれば、メリハリをつけるということは欠かせないし、自分の人生の中で、どこを丁寧に生きるべきで、どの部分は適当で許されるのかということを、明確に決めておく必要がある。

この部分をおろそかにすると、誰の人生を歩んでいるのかわからなくなってしまうし、他人の価値観に支配されることになる。

そして、この選択を間違ったことによって、家族に見放されたり、自分の人生に価値を感じることができなくなってしまったりする人も少なくはない。

他人から見てどうかではなくて、自分の価値観に対して率直になるというのは、言葉にすると簡単そうに思えるが、実際には価値観というのは、とても曖昧なものなので、普段から意識していないと意外に難しかったりする。

そして、自分の道を突き詰めていくと、意外な一面がどんどん掘り起こせたりするので、どんどん変化していくということも必要になる。

それを面倒だと思うのか、楽しく感じるかは人それぞれだが、私にとって変化というのは興味深いものだし、一見すると一貫性がないようであっても、根本に流れる原理のようなものが見えてくるので、むしろそういったものをこれからもどんどん発見したいと思っている。



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執筆者、伊田武蔵
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