仕事を続けながら世界一周を始めた




「会社を辞める理由を聞かせてもらおうか」

「世界一周するためです」

「何をバカなことを・・・」


そんなやり取りが行われたわけでもなく、
仕事において特に変化もないまま世界一周を始めた。

そもそも私は会社に勤めていないし、
上司もいない。

退職という概念なら何年も前に捨てた




初めて海外に出た20代の時には、
少ない貯金を切り崩しながらヨーロッパを旅した。

もちろん仕事を続けながら旅をするなんて考えもしなかった。

大道芸人等なら現地で稼げるかもしれないが、
人見知りで不器用な私にそんなことができるわけもない。


あの頃の自分に、
「10年後は仕事をそのまま続けながら
 世界一周の旅に無期限で出ることになる」
と伝えたらどんな顔をするのだろう?

きっと信用してもらえないはず。

サラリーマンで一生を終えることには危機感を持っていたものの、
今のような自由さで働けるとは思っていなかったので。



それでも、サラリーマンを辞めて独立してから、
いかに自由に生きていくかということを追求してきた。

ただ収入の絶対額を上げるだけでは満たされない。

もちろんサラリーマン時代よりはずっと稼げるようになったが、
所詮お金は道具でしかない。

目的ではなく、手段。


それを得るためにすべてを捧げては意味がない。

だから、
人間関係や場所、時間に束縛されない形で仕事をしてきた。



ある意味、仕事を続けながら世界一周に出るというのは、
その集大成のようなものかもしれない。

通常であれば、
無職になって収入が途絶えた状態になるのが
当たり前の行動なのだから。

しかも駆け足でいくつかの国を周るわけではなく、
特に期限も決めずにのんびり行くことになる。



ルートも未定で、
最初に訪れるのがクアラルンプールである以外は
何も決めていない。

向こうに行ってから考えればいいと思っている。


そんな感じで、
気負わずに旅ができたらいいと思っていたら、
フィリピンを出るときに出国証明書がないという理由で、
旅の第一歩でいきなりつまづいた。

まさかの出国ができず、
航空券を取り直して翌週に再出発することになった。



この旅の今後を暗示しているような(苦笑)。

きっとこの先も、
航空券やホテルの日付けを間違って予約したりするのだろう。

そんなミスは折り込み済みだと言いたい。

これまでの経験から振り返っても、
完璧な手配なんて期待できないだろう(笑)。



ということで、
その場その場で修正をかけながら、
世界を周ってこようと思う。

海外移住をしてマニラに住んでいたので、
ひとまずスタート地点およびゴールはマニラ。

そこからクアラルンプールが第一歩となる。



仕事を続けられるという前提であれば、
世界一周も大したことではない。

ちょっと週末に海外旅行に行くのと
大差ない感覚で出られる。


場所にとらわれない仕事の環境を整えたことで、
このようなことが可能になった。


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世界一周の旅程

マニラのサンチャゴ砦
今回は出発とフィリピンの永住権取得手続きがかぶっていたため、
当初は東南アジアで時間を潰した。

1年住んだマニラのコンドミニアムを
期間満了とともに退去して、
クアラルンプールに飛んだのがスタート。

そこからマレーシア北上の旅が始まった。

イポー、バタワース、ペナント周ったが、
マレーシアでもリタイアメントビザのMM2Hを取得しており、
今後住みたい街を見つけるための北上だった。

結果、マレーシアで積極的に住みたい街は
案の定見つからず、リタイアメントビザは
日本に何かあった時の保険という位置づけが確定的になった。


その後はペナンからバンコクへ。

バンコクでは久しぶりにワット・プラケオにも足を運んでみた。

そしてnok airでチェンマイへ行き、寺院めぐり。

ワット・チェディルアンやワット・スアン・ドーク、
ワット・チェン・マン等を見てきた。


そして日本に一時帰国。

元々東京が世界一周の起点でもないので、
戻ってきたというより旅の中で立ち寄った国という位置づけ。

築地に行って旧知の人にお寿司をごちそうになったり、
コミュニティーメンバーとお茶会をしたりした後は
ジェットスターでケアンズへ。

ケアンズからはキュランダ・グレートバリアリーフにも足を伸ばし、
そこからシドニーとメルボルンも訪れた。


オーストラリアの後はジャカルタ。

空港で30日の観光ビザを購入した。

以前には悟空と惣右介と共に開拓した街だが、
今回は移住先としてジャカルタを見るため、
日本人街のブロックM等の外国人居住エリアを中心に。

ブロックMのホテルに宿泊している時には、
激しい腹痛で3日ほど動けなくなったこともあった。

その時期の食生活から考えて、
ブロックMの和食レストランのどこかで当たった模様。

店内で虫を、
しかも名前を口にするのも忌まわしい
あの虫を見かけたこともあったので、
納得といえば納得の結果だった。


そして、フィリピンの永住権、クオータビザの
最終手続きの日程が決まったとサポート会社から連絡をもらい、
再びマニラ入り。

そこで無事にクオータビザを取った後、
セブで友人夫妻と食事をしたり海を眺めてから、
マニラ経由でロンドンに飛んだ。

アジアを離れるまでが長かった(笑)。


ロンドンからダブリン、ベルファストと移動し、
Ryanairでリスボンへ。

この時点で8月になっていた。

イングランド・アイルランドは涼しかったが、
リスボンは連日30度超え。

そこからオビドス・ナザレ・コインブラ・ポルトと北上。

ポルトガル縦断を終えた後は
陸路でフランクフルトをめざす予定だったがやめた。

あまりに暑いため、
マドリッド経由でポーランドのクラクフに飛ぶことにした。

東欧の方が涼しい上、
今後の生活拠点となる可能性を考えた時に
気にかかる存在だったので。

マドリッドでは9年ぶりにプラド美術館へ行ってから、
場所を東欧に移し、
クラクフからスロベニアのブラティスラバ、
チェコのプラハへと長距離鉄道で移動。

さらにドイツ入りして
城塞都市ニュルンベルクの後、
フランクフルト入りした。


そこから大西洋を飛び越え、
condorでカナダのハリファックスへ。

北米横断の旅が始まった。

ハリファックスの後は鉄道でモントリオール、
首都オタワ、トロント、ナイアガラへ。

ナイアガラは当初カナダ側から入り、
それから国境を越えてアメリカ側に移動し、
ニューヨーク・フィラデルフィア・ワシントンDCへ。

アメリカの主要都市はいまいち興味が持てず、
MOMAやメトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、
バーンズ・コレクション、スメソニアン博物館等を鑑賞し、
手早くバンクーバーへ。

そこで数日を過ごした後、
12月にフィリピン航空でマニラへ戻り、
世界一周の旅は9ヶ月でひとまず終了した。

と言っても自宅をすでに引き払っていたので、
その後もホテル暮らしを続けることになったのだが。


世界一周チケットは買わなかった

空港の免税エリア
ANAが所属するスターアライアンスや
JALのワンワールド等では
世界一周チケットを購入できる。

東回りか西回りかを決めて、
それぞれの地域で一定回数までしか立ち寄れないとか、
西回りなのに東に戻るような動きができないとか、
一定の制約があるものの、
利用する人も少なくないらしい。

しかし、今回は購入を見送ることにした。

最初から世界一周チケットを購入できるほど
旅程が定まっていなかったこともある。


マイルを利用することを考えれば、
実はヨーロッパまで、もしくは北米までの往復と
世界一周では大差がない。

そのため、貯めているANAがのマイルを利用して
ビジネスクラスで世界一周チケットを買うことも考えた。

座席のグレードは全旅程で均一にする必要があるため、
部分的にエコノミーにしたり、
ファーストクラスに替えたりはできない。

身体的な拘束の厳しい長距離便だけビジネスクラスで、
短距離はエコノミークラスという選択は不可。

マイルを使うなら
スターアライアンスの世界一周チケットをビジネスクラスで利用するのが
最適な戦略だったと思う。


しかし、今回は初めての世界一周だったし、
もっとストイックにいきたかった。

生活水準を上げるのは容易でも、
グレードを下げるのは心理的に難しいもの。

エコノミーやLCCでの世界一周を経験するなら、
今回しかないと判断した。


ということで、マイルは利用せず、
LCCを中心にした移動となった。

アジア内ではエアアジアやscoot、セブパシフィックを利用し、
オーストラリアに行くのにはジェットスターを、
ヨーロッパ行きにはロシアのアエロフロートを使った。

また、ヨーロッパ内ではRyanairを使ったし、
フランクフルトからカナダのハリファックス行きには
condorを利用した。


バンクーバーからマニラまではLCCがなかったので
フィリピン航空を利用したが、
ほとんどのフライトはLCCを利用。

さすがに大西洋や太平洋を越えるフライトは
かなり窮屈だった(苦笑)。

ただ、若い頃のように
バックパッカーとして貧乏旅行をする気になれなくなったのと同様に、
こうした体験も年齡を重ねるほどに敬遠しがち。

今の段階でLCCを使って地球を一回りできたのは
面白い体験だった。


スーツケースか、バックパックか

ドイツのカバン屋
旅立つ時点では、バックパックを愛用していた。

タクシーの後部座席に載せられるため、
トランクに入れたまま持ち去られる被害を防げるので。

また、新興国では道路状況が悪くて
スーツケースの車輪がうまく機能しない事態も想定していた。


しかし、世界一周を始めて見ると、
別に秘境の奥地やジャングルをかき分けるわけでもないので、
悪路で車輪が転がらないようなことは
めったにないことが分かった。

むしろリスボンのように、
石畳が荒い街で少々困ることがある程度で。



そして、アジア・オーストラリアを離れて
ヨーロッパに入った後、
スロバキアで転機が訪れた。

首都のブラティスラヴァを発つ日の朝、
急にバックパックのジッパーが壊れた。

一度開いたきり、塞がらない。

これでは荷物が飛び出しかねない。


すでにプラハへの長距離鉄道の時間が迫っていたので、
応急処置だけをしてそのまま駅に向かった。

プラハのマーチャンツクラウンホテルにチェックインした後、
ヴァーツラフ広場近くの店でスーツケースを買った。

これがバックパックに別れを告げ、
スーツケースでの旅に切り替えたタイミング。

別にバックパッカーというアイデンティティがあるわけではないし、
以前にもスーツケースを利用していた時期はあった。

もっとも、その時には20キロ以上の荷物を抱えていて、
機内持ち込みなどとてもできないサイズだったが。

今回は事前にLCCを中心に各航空会社の規定をチェックし、
手荷物として機内持ち込み可能なサイズをリサーチして
範囲内でもっとも大きなスーツケースを購入。

こうしてプラは以前と以後で、
バックパックとスーツケースが別れた。


結論としては、
やはり世界一周にはスーツケースが
基本的に正解だと感じる。

もちろん行き先によるが、
よほどマイナーな場所にまで足を伸ばすのでない限り、
基本はスーツケースではないかと。


靴は現地で変えながら

バックパッカー関連のメディアを運営していた頃、
よくある問い合わせに靴や服装に関する質問があった。

ビーチサンダルではなく、
パタゴニアなどの専用のサンダルを履くのも手だが、
これはかさばる。

私は室内用と東南アジア等の暑い場所用に
ビーチサンダルを1つと、
あとはスニーカーを一足用意した。

スポーツタイプのものではなく、
ある程度カジュアルに履けるものを。


あとは世界一周中にも現地で新しく購入したりしながら、
靴は臨機応変に済ませた。

新しく買った時には、
それまでに履いていたものは捨てた。

靴は荷物の中でもかさばる上、
世界中で販売している既製品のため
予備を持っておく理由はない。


この数年は海外で暮らしていたこともあり、
日本で靴を買う習慣はすでに喪失していたため、
海外で靴を買うのには抵抗がない。

インチ表記の国だとサイズ選びが難しいが、
とりあえず適当なサイズを持ってきてもらって、
そこから調整していくことで困ることはない。


なお、靴の品質や価格を世界中で見た結果、
今ではバンコクや台湾で購入することが多い。


旅の中で記憶に残った街

ポーランドの石像
基準やテーマによって、
どの街が一番かというのは変わってくるので難しいが、
世界を一周する中で印象的だったのはクラクフ。

中央市場広場の馬車
旧市街
ヴァベル城
緑道
シシケバブ

初めて本格的に訪れる東欧であり、
今後の居住国を考える上でも大きな影響を受けた。

クラクフが住む街として魅力的なのはもちろん、
東欧には物価が安くて治安や街の景観、利便性も優れた街が
いくつも存在する。

今までは東南アジアにばかり目を向けていたが、
視野が一気に広がった。


ヨーロッパで暮らすことを真剣に検討し始めたのは、
この世界一周の旅がきっかけだった。


世界一周中にはトラブルも


自ら危険地帯を訪れることはなかったし、
フィラデルフィアのカムデンや
ワシントンのアナコスティアのように
特に治安が悪い場所に立ち入ることも避けた。

私の旅のテーマは、
今後住みたい街の発掘という要素が大きいので、
どう考えても住みたくない危険エリアを見ても
貴重な収穫を得られるとは考えがたい。

ブラジルのファベーラのような貧民街を見ても、
そこで暮らすことはないわけなので。


とは言え、それでもトラブルが
望んでいなくてもやってくることもある。

リスボンとナイアガラでは
人種差別的な対応を受けた。

リスボンではモンサント公園付近で、
高校生ぐらいの二人組の若者が
一本道の後ろから延々怒鳴りつけていた。

ポルトガル語だったので、
何を言っているかはよくわからなかったが。


ナイアガラでは大学生らしき8人ほどの集団から
中国人と間違われて「チーナ!チーナ」とからかわれた。

妙に高身長で動けそうな集団で、
おそらくバスケ部か何かではないかと思う。


両方共暴行を加えられたりはしなかったが、
ヒヤリとする出来事だった。


また、オタワでは議会の銃撃戦にニアミスした。

前日はまさに議会の前を通っていたし、
事件のタイミングでも2キロと離れていない場所にいた。


そんな出来事はあったものの、
実害のあるトラブルは世界一周には特になく、
その点は幸いだった。

食事が美味しかった街


味が斬新だったという意味も含めて、
東欧は食の面でも気に入った。

ポーランド、スロバキア・チェコ。

今回の世界一周で言うと、
この3つの国。


アジアについては今まで行き慣れていたので、
味覚の面での新しい発見は乏しく、
北米やオーストラリアはいまいちだった。

もちろんグルメを追求することを求める旅なら、
有名レストランもたくさんあるエリア。

ただ、今回はそういう趣旨ではなく、
入ったのも普通に目に入ったレストランばかりで、
いわゆる名店に予約を入れたり、
ミシュランで星が付いている店を選んだわけでもないので。


そうなると、東欧が目新しさも含めて
突出している印象。

生クリームやプルーン、リンゴ等を載せた肉料理や
グラーシュというスープ(シチュー)等、
今まで食べたことがなく、
なおかつ美味しいものが多かった。

生クリーム入りのベリー・スープ
鶏肉のラズベリーソース添え
ブラティスラバのイワシ料理
ポーランドの羊肉煮込み
デザート


人生観は変わったのか?

クロアチア・リエカの港
「世界一周って、人生観変わりそうですよね?」

こんな言葉を直接かけられたり、
メールやフェイスブックのメッセージもらうことがある。


実際はどうかと言えば、
人生観なんて微動だにしない。

ただ、世界が秘めている可能性は
今までよりもより大きいことが理解できた。


すでに日本を離れて生活していたので、
海外に出るだけで衝撃を受けることはない。

その意味では、
初めてのヨーロッパ周遊の旅に出た10年前の方が
人生観に影響があったかもしれない。

あの体験がなかったら、
海外生活を思いつくこともなかったかもしれないのだから。


今回の世界一周は新しい冒険というより、
合理的な選択として西回りに進んだら
結果的に地球をぐるっと周ったという印象。

同じ場所を行ったり来たりするよりも、
一定方向に進んだほうが無駄な移動を省けるので。


東回りを選ばなかったのは、
時差ボケがきついから。

西回りの方が身体が楽をできる。


世界一周をしたこと自体より、
自宅を持たずに9ヶ月ホテル暮らしをしてみたことの方が
得るものとしては大きかった。

一般常識として、
自宅は持っていて当然のもの。

一定以上の世代であれば、
賃貸ではなく持ち家を持つことが
一人前の条件だという感覚もあっただろう。


しかし、実際にはホテル暮らしでも
困らないことを体験として実証できた。

日本に約30年住んだ後、
マレーシアのコンドミニアムで2年暮らした。

その後はマニラで1年。

自宅の場所を日本から海外に移し、
日本非居住者になってから3年。

次は自宅すら持たないという選択を実験的に行ったが、
脳のリミッターが外れてみると
意外に支障はなかった。


世界一周は終わっても、旅は続く

クロアチアの伝統建築
バンクーバーからマニラに戻り、
ひとまず世界一周の旅は終了した。

永住権も取れたので、
無期限でフィリピン生活を送ることも可能。

不動産会社に行って部屋探しをすれば、
早ければ数日後には定住生活に戻れる。


しかし、その選択はしなかった。

当面は色々な国を周ることにしたため。

世界一周が終わっても、旅暮らしは続けていく。

もちろん仕事も継続しているし、
旅費よりも収入が上回っているので
持続可能なライフスタイルになっている。


ホテルだけではなくairbnbという選択肢もあるし、
旅暮らしには便利な環境が整いつつある。

一生今の生活を続けるという決意もないが、
まだまだ行ってみたい国、
ゆっくり滞在したい国が数多くあるので、
当面はそんな感じでやっていこうと。


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執筆者、伊田武蔵
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