どこまで行っても人間は政治的な生き物だという悲劇


世界各国を見ていて思うことがあるが、人間というのはいくら上辺で平和や協力ということを口にしてみたところで、最終的には政治的な動物であるという側面を持っている。

そしてこれはそのまま、権力闘争を好むという性質にも繋がってくるわけで、残念ながら本当の意味で言う世界の協調とか、平和な国際社会という理念とは、真正面から相反するものとなってしまう。

例えば、隣国同士で仲が悪い国というのは非常に多く、それは歴史的にも火種を抱えているということが頻繁に言える。

これは日本と韓国について考えてみればわかるところで、基本的に近くにあるということは、それだけ過去にも揉めてきたということもあるわけだし、あるいは一つの国になっていないということは宗教や言語等何かしらの対立があって、相容れないものがあったということも多々ある。

そういった状態で、いくら平和であるとか、あるいは協力関係を望む人がいたところで、それを面白くないと感じる人も出てくる。

そして、そういった人が一定数出てくると、お互いの関係に亀裂が入ってしまうということになる。

例えば、韓国人の中に、強烈に日本を排斥しようという運動をしている人がテレビのニュース等で取り上げられることがあるが、こういった映像を見れば、日本人も韓国に対して反感を覚えることになる。

こういったことが続いていくと、結局本当の意味で総合理解とか、あるいはお互いを家族のように考えるとか、そういったお題目は実現されることはなくなってしまう。

そしてこれは、東アジアだけで起こっているのではなくて、世界中のありとあらゆる所で起こっている普遍の事実。

これはもはや仕方がないことというところもあって、人間というよりも、そもそも生物は本能的に他者の上に立とうとする性質がある。

生き物の根源的な欲求として、子孫の繁栄と、生存という二つが指摘されることが多いが、こういったことを考えてみると、究極的な平和というのは理想ではあるものの、生き物の進化の過程の中ではあくまでも強いもの、あるいは環境に適応できたものが生き残ってきたというこれまでの経緯がある。

そういったある意味競争に勝ち抜いてきた優秀な個体が、遺伝子を残してきたわけで、我々というのはある意味で言うと、政治的に勝ち残ってきた遺伝子を受け継ぐ存在ということになる。

こう考えてみると、悲しいことではあるが、人間はどこまで行っても政治的な生き物であって、他者の上に立ちたいとか、権力を持ちたいとか、そういった欲求に突き動かされていくということになる。

もちろんその一方で、弱者からの搾取を嫌う気持ちとか、他の人にも幸せになってほしいという気持ちがあるというのも事実で、例えば、フェアトレードの推奨であるとか、ボランティアや寄付といった行動にそういったことも現れる。

しかしながら先進国の人間が、1年間に数千円とか、数万円を 仮に寄付であるとか、もしくはフェアトレードの商品等に費やしたとしても、受けている圧倒的な利益に比べれば、そういった支出というのは微々たるもので、結局は後進国からの搾取によって圧倒的な利益を受けているということは変りはない。

良き市民であろうというポーズを取ったり、あるいは自分の精神的なバランスを取る為に、こういった社会活動に参画するというのも、ある意味では非常に政治的な行動であって、それをもって人類が本当の意味で平和を求めているとか、あるいは誰もが幸せになれる社会を夢見ているということを指摘するのは間違いに過ぎない。

実際のところ、人間の幸福度というのは周囲の人間と比べて、どのような生活や能力を持っているかということが重要なファクターになってくるわけで、周りがみんな幸せになれば、自分が不幸になるという不思議な現象が起こる。

それは政治的な生き物として人間を見れば極めて自然なことで、あくまでも人間との比較によって、自分の地位が決まるわけなので、これはやむを得ないことということになる。


よく読まれている記事

1位:世界一周を日常に変える方法

2位:【無料】海外移住オンラインセミナー

3位:パワハラ・リストラからの人生逆転



メールアドレス

ページの先頭へ