神話ではなくリアリズムに裏付けられた将来設計を


ギリシャ神話は、21世紀の今になっても物語の構成の基本パターンと目されている。

何千年も前に綴られた神話が今でも力を持っているのは驚きだが、一方では納得できる部分もある。

昔の神話は紙やパソコンに記されて記録されたのではなく、口承文学として口伝えで人から人へと伝わっていたわけなので、当然ながらその中で内容が変遷していく。

いらない部分は削ぎ落とされ、人々の心に響かない物語はいつの間にか忘れ去られていく。

そういった自然淘汰を経て残った神話が、人間の心に強力な影響を及ぼすのは納得ができる話。

これだけ科学が万能となり、スピリチュアルなどの一部の業界を除けば神話やオカルトの類のものが介入する余地がなくなってきた現代であっても、未だに多くの人が多かれ少なかれ神話に基づいて人生設計を行っている。

たとえば終身雇用や、就労年数による給料の増加というのもその一部。

消えることのないサラリーマン神話

サラリーマン神話はすでに前提が崩れているにも関わらず、それに代わる分かりやすいモデルが無いという理由で未だに多くの人に支持されている。

例えば高校生や大学生の息子をもつ父親であれば、子供がフリーターとしてふらふらとするよりは、卒業後にしっかりとした会社に勤めてくれた方が安心できると思う人が多いだろう。

確かに無計画にフリーターを続けることに手放しで賛成するつもりは毛頭ないが、かといってとりあえずサラリーマンとしてそれなりに名前の通っている会社に勤めておけば良いというのは、知的怠慢も甚だしい。

結局五十歩百歩といったところで、どちらも本当の意味で将来設計をしているとは到底いえない。

ある意味でいうと、サラリーマン神話が機能していた時は、日本において一神教の神話が成立していた時に近い。

何しろそれ以外の道は基本的になかったのだから。

もちろんサッカー選手や野球選手のように、キラ星のような才能を持つごく特殊な人が別ルートで成功する道はあったし、学者や政治家とか、そういったルートも存在しないわけではなかったが、やはり圧倒的多数が通る道は鉄道路線のようにしっかりと決められていた。


根拠をリアリズムに求める

神話の前提が崩れた以上、あとはリアリズムを前提にして将来設計を自ら開拓していく精神でつくっていかなければいけない。

そこで考えるべきことは希望的観測ではなく、むしろネガティブなシュミレーションをしてその上で日々の生活は前向きに楽天的に淡々とこなしていくこと。

少なくとも明日は明日の風が吹くと思って、何も考えず思考停止というのは、もはや自分の人生の舵取りを自ら放棄したようなもので、なぜあえてそんな不自由な生活を選択したがるのか意味が分からない。

人類の歴史を紐解けば、いかに自由を獲得するために多くの代償を払ってきたかということが分かるが、現代の私たちは参政権とか職業選択の自由とか、そういった古典的な権利は当たり前のように持っているし、そこから先の様々な選択肢も視野に入っている。

世界一周をしようと、60代になってからアルピニストとして活躍しようと、タイ人やフィリピン人と国際結婚をしようと、マイクロカンパニーを所有して個人として生きていこうと、男性が専業主夫として家庭に入って妻を支えようと、システムによって自動化できる仕組みをつくってそこからの権利収入で暮らしていこうと、本人の勝手。

行政や国家権力がそれを潰しにくることもないし、周囲の声がうるさいのであれば遠くに引っ越せばたいていの雑音を消すことはできる。

うるさい人は着信拒否に設定しておくとか、スマホを捨てて新しい電話番号に変えるとか、いちいちどうでもいい人にまで住所を伝えないとか、そういったことをすれば人間関係のリセットも可能。

全てが自己責任ということは、逆に言えばすべてが自由であるということでもある。

それを前提に将来設計をすれば、そこにあるのは細いロープの上を歩かなければいけない綱渡りのような恐怖だけでなく、どこまでも広がる大空のような開放感もあることにきっと気づくことができる。

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