その街に住む必然性は存在するのか


最近、はてなブログ界隈で「私が○○に住む7つの理由」とか、そういったタイトルで書かれた記事をよく見かける。

この○○には都市名が入って、鎌倉に住む理由とか、福岡に住む理由とか様々なものが書かれていた。

そういった記事を見て私が感じたのは、もはや私にとってどこか特定の街に住む必然性は何一つ持ち合わせていないのではないかということ。

確かに、世界においては住みやすいと感じる街が幾つかある。

例えばポルトガルの首都リスボンは、生活の場としてバランスが良くて、一国の首都だけに交通インフラは整っているし、ショッピングをする場所もあるし、街中でもそれなりに自然があって、なおかつ海と山に囲まれていて精神的に豊かな暮らしが、利便性の高い場所で出来るというメリットがある。

しかし、それではリスボンに住み続ける必然性があるかというと、別にそういったことでもない。

あるいはこれまで住んできた街、東京や埼玉、神奈川、そしてジョホールバルやマカティ。

こういった街にこれからも住み続ける理由があるのかというと、十分な理由は何一つない。

そんな必然性のなさが、転々と住居を変えながら、場合によっては国境すらも越えて移り住んでいく今のスタイルに繋がっている。

実際、はてなブログのエントリーを見ていても、まじめに自分がその街に住む必然性を語っている人は少なく、ジョークやユーモアで書いている人が多かった印象がある。

結局のところ、人間がどこかの街に住まなければいけない理由はなく、本来的にいうと人間は住む場所を大きく変えて生きてきた。

それはアフリカに人類の起源があって、それが世界中に散らばっていったことからも窺える。

日本人に関して言えば、大陸から海を越えてやってきたくらいなので、どれだけの大冒険をしていた民族の末裔なのかという話になる。

そういった歴史を考える限り、どこか一つの街に住む必然性はせいぜい会社に勤めていて、そこからの通勤圏内に住まなければいけないとか、その程度のものではないかと感じている。

少なくとも会社から解放された私としては、もはや一つの街に何年も住み続ける理由なんて見当たらなくなってしまった。

それはある人にとっては根無し草のような、心許なく不安な状態に見えるのかもしれないが、いつでも自分の住む場所、居場所を確保できるという自信があれば、全く苦にはならない。

むしろその方が安定しているし、怖いものが無くなった。


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