グローバル化はあり得ないという事実



本当の意味で、国際社会やグローバルルールが出来るというシナリオは幻想に過ぎない。

それは理屈で考えてみれば当たり前で、元々どこかの世界の中心のルールが波及して世の中に広まっているわけではなくて、元々いくつもある世界各国であったり、あるいは各地域の文化が合わさってその中でグローバルルールを作っていく流れになるわけだから、そもそも標準を規定することが出来ない。

これは例えば電源のコンセントの形一つとってもそう。

例えば日本の方式を世界標準にしようと思えば、すべての国で電気工事が必要なわけだし、電流や電圧の強さも変えなければいけない。

そのためには莫大な費用がかかるし、当然各国のメンツ、あるいは経済的な負担等を巡るパワーゲームも出てくるので、し烈な争いを潜り抜けなければいけないことになり、結局いつまで経っても問題は解決されない。

海外旅行に行くたびに、わざわざ世界対応のプラグを持っていったり、かなりの重さのある変圧器を持っていくのは負担ではあるものの、一律に問題を解決しようと思ったら、それどころではない莫大なコストがかかってしまうことになる。

食生活を考えてみても、マナーは世界各国で全く違っている。

例えば日本で言えばお椀やお皿を左手で掴んで右手で箸を持って食べることが許されても、韓国料理では基本的にお皿等を手で持つことがマナー違反とされていて、そういった違いが各国ごとにある。

こうしたことを考えてみると、統一的な文化を求めるより、むしろそれぞれのローカルな文化を上手く取り入れながら人生を送った方が豊かに暮らせるのではないかと思う。

考えてみれば日本はほぼ単一の民族と言語のみを使う人が一億二千万人以上もいる訳で、わざわざすべての世界を統一するとか、そういったことをして莫大な人口を市場規模として規定する必要自体がない。

さすがに少数部族等であればマーケット規模が小さすぎてなかなか扱いづらいといった事情があるものの、世界を細分化することはごく少数の勝者による利益の総取りを防ぐという意味では、むしろ平和的な世界を構築するために適している。

まして、今後ライフスタイル等が様々になってくることを考えれば、ますます個人は活躍の場が増えていくし、逆に現在の大企業とか、それが集約してできていくメガ企業と呼ばれる世界的な企業がすべてを牛耳る社会を防ぐことが出来るはず。

そういう意味では、ローカルルールが無数にあるのは非常にややこしく不便ではある一方で、個人や小さな企業が生き残っていく術ということを考えた時には、プラスに働く側面が少なからずある。

実際に海外を旅行していると、例えばバスや電車のルールも違えば、下手をすると航空便すらも荷物の取り扱い等で未だにルールが統一されていない事実に不安を覚えることもあるが、そういったデメリット以上のメリットを知らないうちに我々は享受しているのかもしれない。

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