兄弟リスクが日本において深刻な問題になる理由

かつては兄弟も含めた家族は、共同体でいざという時に頼れる存在であった。

その意味でいえば、リスクというよりはむしろ、人数が多くなってコミュニティとして巨大化するほどに安定感が増していくというのが従来の考え方だった。

これは今でも一部の国においては機能していて、例えば私が以前に住んでいたフィリピンだと核家族化がマニラ等の一部の都市では進んではいるものの、まだまだ大家族で暮らすことが多く、世代間を超えた助け合いが当たり前に行われている。

子どもを育てるのは兄弟であったり祖父母であったりと、必ずしも親が主体となっている場合ばかりではないし、むしろ一族の中に稼ぎ手がいれば、金銭面でその人に依存していくのはフィリピンにおいて珍しい話ではない。

そして、大家族のため、老人介護という問題も基本的には家族の中で解決できている。

わざわざ老人ホームに入れなくても、家族の中にだいたい暇な人がいるので、そういった人が祖父母の手助けをすることによって、一家の中で介護問題が解決するため。

よくフィリピン人女性と結婚した日本人の男性が、家族や親族にお金をむしり取られたり、せびられたりする話があるが、これは一概にその一家が特殊なわけではなく、基本的にフィリピン人はそういった文化の傾向があるし、彼らは別に日本人からむしり取ってやろうと思っているとは限らない。

もちろん相対的にフィリピン人よりもお金を持っている日本人に対してチャンスを見出す気持ちはあるだろうが、それ以前の問題として文化的な差異がある。

これに対して、日本において兄弟リスクが叫ばれ、無職の弟や、結婚をしていない中年の姉が今後どうなっていくのか、そして最終的には自分であったり、あるいは妻や夫といった配偶者、さらには子供達にまで被害が及ぶのではないかと懸念する声も出てきている。


扶養義務がセーフティーネットより重荷に

かつては日本においても、兄弟はいざというときに助け舟を出してくれたり、一部の不動産の賃貸契約においては家族でないと保証人になれないような会社もあったりして、血のつながりは強固なもので、血は水よりも濃いという格言は真実だった。

しかしながら、法律的に相互扶養義務を負う家族が、今ではむしろリスクになってしまっている。

兄弟リスクはまさにこのようなもので、下流老人や下流中年という言葉が一般的になって、ちょっとしたきっかけで貧困に陥る時代においては、家族の中でそういったリスクを取るだけの余裕がなくなってきている。

そもそも日本の家族制度は高度経済成長の時代やそれ以前の名残を持っており、人口が減少することや、経済が衰退していくこと、さらには核家族化が当然の前提になった後であることを予期していない。


つまり、そもそもの時代の前提が崩れてしまっていて、単純に過去のスタイルに戻っていけばうまく機能するというものでもない。

核家族化が進んだ現代においては、一家の中で働き手は一人か二人ということが一般的だし、離婚も珍しくなくなった昨今としては、シングルファザーやシングルマザーも多い。

そういった家庭においては働き手が一人しかおらず、それでいて扶養する家族として子供がいるわけで、それだけでも貧困に陥ることが多い中、兄弟リスクが顕在化した場合、兄弟姉妹の面倒まで見切れるのかというとかなり厳しいものがある。

一家に15人いれば、多少の不測の事態のダメージを吸収できても、3人しかいない中で扶養家族を一人増やすとなれば負担が大きすぎる。

リスクの発生率が同じだとしても、兄弟を含めて家族や親族の問題が顕在化した時に与える影響が深刻すぎて、1つの家庭で対処しきれない場合があるのが怖いところ。


さらにいえば、兄弟リスクは必ずしもお金の問題だけではなく、介護等の問題をはらむこともある。

そうなってきた場合、介護ができるのが一家の働き手のみという場合においては、介護の責任を果たすことによって一家の収入源が閉ざされることになり、それは本人だけではなくて子供たちにまで悪影響を及ぼし、下手をすると貧困が連鎖していく可能性もある。

教育を受けられなくなるとか、最近だと貧しい家庭の食事が脳や体の成長に与える影響も指摘されているが、そういった問題が残る可能性もあり、社会において余裕がなくなってきた中で家族の在り方が見直される時期になっている。

少なくとも日本においては、兄弟において相互扶養義務が法律上は存在するが、現在、あるいは10年後、20年後の社会情勢を考えたときに、それが現実的なのかどうかというと、なかなか厳しいものがあるだろう。

少なくとも文化や価値観の形成を待たずに、スムーズに移行できる問題だとは思わない。


兄弟という不安定な関係

もともと兄弟というのは遺産相続等でもめたり、絶縁状態になったりすることも珍しくはなく、大人になって以降、必ずしも良好な関係を維持できているわけではない。

一方でフリーターやニートを続けて、高齢になってから貧困に陥る全ての人を国が一元的に支援するよりは、家族でも親族でも血縁でも何でもいいので、とりあえず別の個人と紐付けてしまい、相互に助け合う義務を負わせてしまえば、国の負担が減るというのも一つの真理。

財政に余裕がない以上、そのような紐づけをわざわざ国の側が簡単に解いてくれるとは思わない。

なお、現状でも兄弟姉妹に対する扶養義務の範囲は、余裕があるなら支援すべきという程度のニュアンスであって、何が何でも面倒を見なければいけないというほど強い義務ではない。

そうなってくると兄弟リスクが顕在化したときに、相手を見捨てることができない責任感の強い人や、優しい人が最も深刻な被害を受けることになりかねない。

そして兄弟と近くに住んでいるとか、常に一つの場所に住んでいて引っ越し等によって連絡が途絶えることもない場合には、相手から意図的に付きまとわれることもあり得る。

残念なことに、天性の依存体質の人は、世の中において一定数存在する。

それを周囲が矯正することで性格を変えられるという考えは、過度の期待だろう。


たとえ若いときから無責任に仕事をしないでフラフラしていて、周囲の誰もがそれ見たことかと思うほどに当然の帰結として貧困に陥った場合であっても、兄弟であるというだけで相互扶養義務が発生してしまうので、場合によっては回避困難な大きなリスクということになる。

そしてこの問題をより深刻なものにしているのは、日本の家族制度の移り変わりが、価値観や人々のマインドという面で時代にそぐわなくなってきているから。

この問題は下流老人やシングルマザー、シングルファザー、待機児童等と同じように静かに、しかしながら深刻に社会の一部を蝕んでいく病理になっていくと思われる。


フィリピン人のメイドの受け入れ等も提案されているが、そもそも一律に平等をキープしようとする考えに無理がある。

フィリピン人のメイドと言えば、フィリピン現地に住んでいても、人によって仕事の質、さらには契約を正当に履行する意思の有無や常識までばらつきがあることで有名。

貧しくて介護が必要な人には、それ相応の人材を当てると行った差異を認めない限り、日本クオリティーの仕事ができる外国人に受け入れを限定しつつ、必要数を確保するという無理難題に直面することになる。

将来に向けて準備をしてきた人には報い、そうでなかった人にはそれなりに不利益を我慢してもらうことも、成長が止まった成熟国家としては必要なことだろう。

そのようなコンセンサスがない限り、兄弟リスクのように、家族間や一部の人への局所的な負担が過剰になったり、政府の財源が圧迫されて立ち行かなくなる結果になってしまう。


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