
人間には感情的な側面と合理的な側面があって、
時として両者が反発しあう関係で共存することがある。
たとえばフィリピンのレイテ島を襲った台風30号、
別名ハイエンからの復興支援の話にも
その話から読み取れる教訓が含まれている。
こうした大災害が起こると、
救済のための基金が数々作られることになる。
中にはインチキまがいの偽物であったり、
主催者が利益を出すための隠れ蓑として
チャリティーを使っている悪質なケースも存在する。
ただ、そうした疑いを持つことは誤りなのだろうか?
感情的な側面を重視する集団においては、
それでも困窮している人がいる以上、
募金をするべきだと主張するかもしれない。
一方で、合理的な面が強く出ている人達は
その行動によって救われる人が存在するのか、
十分に効果的であると証明できる方法であるかを尋ねるかもしれない。
どちらが正しいのかを論じることは不毛で、
共に部分的に的を射ているのは事実。
ただ、重視しているポイントが違うにすぎない。
フィリピンにおいても人々の反応は分かれているし、
日本ほど人権意識や人命尊重の考えが根付いているわけでもないので、
思っているほどチャリティーが盛り上がっている感じでもなかった。
しかもレイテ島に行くには交通手段も必要で、
スキルのないボランティアが下手に現地に乗り込んで
被災者を直接支援しようとしても邪魔になりかねない。
船や飛行機には限りがあるわけだし、
専門の訓練を積んだ人が行った方が役に立つのが
論理的に、言い換えれば合理的に考えた場合の結論。
ただし、これも感情的に言えば
他人を助けたいという情熱で自らの時間と労力を投げ打つ行為は
尊いものであるということになる。
この立場をとれば、考えなしにレイテ島に足を運んで
現地で途方に暮れるのも肯定されることになる。
どちらが正しいわけではない。
両方共事実を別の側面で見ているだけにすぎない。
問題なのは、どの側面について話しているのか、
それを見失って迷走することにあると思っている。
他人との会話や論争の中ではもちろん、
時には自分の脳内ですら別の切り口の価値観が混ざり合い、
結果的に折衷案どころかその場しのぎでしかない結論が
導き出されることも。
そうした危険性は認識しておくべきだと感じた。