東洋哲学がフィロソフィというより思想であるとされる理由


仏教やヨガなどの考え方、孔子や孟子、さらに言えば日本の哲学やインド哲学は、西洋の哲学であるフィロソフィよりも、むしろ思想に近い存在であると表現されることが多い。

これはいったいどういうことなのかと言うと、ヨーロッパにおいては、哲学を考える時に、論理や整合性を非常に重視してきた。

これはギリシャ時代に端を発しているものであって、その後のローマにも考え方が引き継がれている。

これに対して、東洋の多くの哲学は、その土地に根差した考え方を取り入れていて、論理という面で見るとかなり脆弱なものが多い。

そこでどのような根拠付けを行うかというと、土着信仰とか、あるいは特定の宗教に結びつきがちで、論理を超越したところに答えを求める傾向にある。

こういった性質の違いを前提にして、フィロソフィという言葉の中には西洋哲学は含んでも、東洋哲学は含まないという考え方はかねてよりなかなかに根強いものがある。

実際、東洋と西洋では様々な場面でアプローチが異なる。

これはどちらが正しいかという議論ではなくて、それぞれに性質が異なり、上手に両方を咀嚼して抽象化することによって次元を上げてみると、共通点が見つかったり、あるいは両者をうまく統合することによって、大きな価値を得ることができるようになる。



医療から西洋と東洋を見てみると

医療の面で見ても、西洋医療は対処療法的なことが多く、薬や手術による治療を中心とするので、即効性を得やすい。

その反面、個々の症状に注目するため、その根源にある問題が見えづらいという課題がある。

したがって、一つの病気が改善したとしても、その後にまた別の病気が次々に起こることは、西洋医学の前ではやむを得ないことと言える。

これに対して、東洋医学のアプローチは全く違っていて、例えば漢方や中医学の考え方では、それぞれの個別の症状にアプローチするというより、根本原因を解き明かし、それ自体を治療するという方向性が基礎になる。

したがって、五臓六腑のうちどこか悪い臓器がないかとか、あるいは、血や気の流れに滞りがないか、こういったところも見ていくことになる。

さらに言えば、ツボや鍼によって経絡の流れを整えるとか、医食同源の考え方によって食習慣を改善することによって、一見全く別の病気に見える複数の症状をまとめて改善できることもある。

こうしてみると、東洋医学は非常にメリットが大きいように見えるものの、一方で即効性に乏しく、長期的な療養が必要になるため、働かないと生活に困ってしまうような労働者層にとっては、なかなか受け入れがたいという問題がある。

つまり、労働者や兵士にとっては西洋医学の方が生活の継続性という面で有利であって、東洋医学はかつての皇帝やある程度の富裕層、文化人、そういった余裕のある人のためのものとも言える。

こうした西洋と東洋の考え方のどちらか一方に傾倒するのではなく、バランスを取りながら両者を眺めていくことによって、いいとこどりをしながら21世紀的な行動を取ることができるようになる。


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