新しい世界に踏み込んだ時のモヤモヤ感を、むやみに消そうとしない方がいい


全く未経験の分野に一歩踏み出したり、あるいは新規に物事を学び始める時は、その世界のルールもわからないし、なかなか先に進んでいる実感がない。

例えば、今からうどん屋をオープンさせようと思った時に、余程その業界に詳しいとか、飲食店の経験があるといった背景がなければ、何から手をつけていいか、いまいちわからないという人が多いと思う。

飲食店の場合であればまだイメージがしやすいので、何となくうどん屋をオープンするまでの道筋をシミュレーションできるかもしれないが、これがもっとピンとこないようなもの、例えば、一流の鍼灸師になりたいということであれば、さらに混乱を極めることと思う。

鍼やお灸を普段から意識している人は少ないだろうし、自ずと縁のない世界ということになる。

そこで少し調べてみようと思っても、鍼灸師に関する書籍やサイトは多く、さらに言えば、偽物や紛い物も数多く存在する世界なので、誰に師事するかということはとても重要になる。

優秀な師匠に弟子入りすれば多くの学びを得られることは間違いないが、そもそも施術師として優秀であっても、教育者として有能であるかということは全く別の問題だし、そもそもその業界で誰が高名であるのかということすらも、簡単に調べることはできない。

例えば、鍼灸師のネットワークがあれば、そこで聞いてみることによって同業者間の評判や噂を確認することができるが、素人がいきなり鍼灸師について伝説的な人を探したりとか、あるいは、日本でも屈指の人を見つけようとしても、確信を持てるような答えを得られないことが通常であるはず。

しかしながら、そのモヤモヤした感覚は、必ずしも悪ではなく、排除することが善というわけではない。

むしろ、早急に曖昧なモヤモヤした部分を排除しようとすれば、本来あるべき広い世界を矮小化して、限定したものとして捉えないといけなくなったり、あるいは、極度に簡略化する必要があったりして、事実を捻じ曲げることによって歪曲した捉え方をしなくてはならなくなる。

こうなってしまっては本末転倒で、素人がいきなりその分野について理解できないという事実を、ただ単に事実として受け止めて、一旦はモヤモヤを脇に置いておくという事の方が重要。

例えば、中学生の時に、数学や英語を初めて習い始めた時、はっきりと全体像が見えるわけもないし、アルファベットを覚え始める時に、自分がどれだけ英語を使えるようになるか、英会話が役に立つかどうか、といったことがわかっているわけではない。

なぜ数学において、小学校の算数とは読み方を変えなければいけないのか、以前は「たす」と読んでいたものを「プラス」と読まなければいけないのか、こういったことも徐々に見えてくる部分はあるにしても、最初の1か月や2か月で全貌を把握できるわけではない。

しかしながら、我々は学校生活において、少なくとも義務教育だけでも9年間も与えられる情報を一応は摂取してきたわけだし、環境さえ整えば、それなりの我慢強さを持っていることも事実。

まして、自分が選んだ分野であれば、なおさらその忍耐強さを発揮できる人が多いと思う。


大人ならではの不利な条件も

勝手知ったるジャンルとは違い、先が見えないモヤモヤしたところに飛び込むのは、自分の意志で撤退も決められる大人だからこそ、思い切りが下手になっている部分もあるように思う。

曖昧さも不透明さも全て前提として受け止めてしまえば、わずかに不快さや不安を感じるものであっても、致命的な欠陥として目に映ることはなくなるはず。

そして、その分野に詳しくなっていくほどに当初のモヤモヤは消えるが、結局新しいところに今度は謎や疑問が広がっていく。

それはいわゆる、無知の知というもので、最初のうちは分からないことすらも分からなかったことが徐々に明らかになっていくため、どんどん深い部分が気になったり、あるいは隣接分野にも興味を持つようになっていき、結局のところ、知の探求は止むところがない。

そしてその時に、モヤモヤをストレスとして感じてしまうと、終わりのない苛立ちにさいなまれることになる。

しかしながら、それこそが物事を知っていく際の正しい姿勢であるとわかっていれば、随分と違う気持ちで取り組めるのではないだろうか。

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