趣味や価値観が細分化され、多様化されていく世の中において、多くの人が何を基準に生きればいいのかわからずに迷っている節がある。
これは当然のことで、いわゆる大衆社会から様々な意味合いで個の時代に入っているので、確立された人生のパターンが消失し、その一方で過去の型に束縛されて動けない人や、以前の成功法則から抜け出せずにもがく人、さらに他人の足を引っ張る人までいる。
こういった状況においては、マスメディアのような大衆に向けての情報発信よりも、もっと細分化した自分の趣味や嗜好性に合う情報を個人がインターネットを中心に選んでいくことになる。
雑誌についてもかなりマニアックなものが増え、基本的に一つ一つの雑誌の発行部数が減っているが、これは時代の要請を考えれば当然のこと。
以前はこういった現象をインターネット的であると表現していたこともあったが、もはやそんなことは当たり前になっていて、それがネット的であるという発想自体が薄れてきた。
そしてこういった時代においては、情報の発信者がコミュニティーを作ることも増えてくる。
コミュニティーというのは、簡単に言えば人の集まりで、その中でも一定の考えや理想、あるいは趣味、価値観を共有している人の集まり。
ということは、例えば陶芸教室や料理教室、あるいはバレエのレッスンだってコミュニティーになりうるし、空手の道場やボクシングジムのように、スポーツを通してコミュニティーを作ることもできる。
何を教えてくれるのか、あるいはどんな活動ができるのかを明確に打ち出しているわけなので、フラダンスをしたい人がボクシングジムに入るわけはないし、そういった意味での明確さはある。
しかしながら、どういった方針でその活動をしているか、といった内情は見い出しづらく、ボクシングをしたかったら、自分の家や学校や会社の近くのボクシングジムを探すといったように、地理的な束縛を受ける側面が強い。
ネット上のコミュニティの特徴
ネット上で情報を発信して、コミュニティーを作るような場合は、どのような理念や考え方でやってるのか、それを発信している人はどんなキャラクターなのか、その人の周りにはどんな人がいて、コミュニティーの仲間はどのような年齢や性別、あるいは価値観を持っているのかといったことも、多種多用になる。そのため、例えばサッカーについて語る人であっても、その人がインテルが好きなのか、FC東京が好きなのかによっても集まってくる人の属性は違ってくるし、バルセロナのような攻撃的なサッカーが好きなのか、あるいは伝統的なイタリアのカテナチオのような守備的なサッカーが好きなのか、といったことによっても、コミュニティーの構成メンバーは変わってくる。
こういったコミュニティーを作る際に、自分でブログやFacebook等を使って人を集めていく人もいるし、主催者側ではなくて、あくまでも一参加者として、コミュニティーに参加する人も多い。
当然ながら、割合としては後者の方が圧倒的に多い。
主催者よりも参加者が多いのは当たり前の話で、そうでなくては人口分布のバランスが悪い。
ただし、今後は1人の人が様々なコミュニティーに所属することが増えていくだろう。
一方ではサッカー好きということで他の人と繋がり、他方で旅好きということで旅仲間やバックパッカー同士、もしくはある程度年齢や所得水準が似ていて同じような旅のスタイルを模索している人と繋がったりといった形で、どんどんコミュニティーも多様化していく。
その中で、あるコミュニティーでは主催者を務めつつ、別のコミュニティーでは一参加者であったり、そういった複数の顔を持つ人が増えていくことは間違いない。
これまでコミュニティーというと、学校や職場のように生活の基盤となっているところが中心で、他には家族や親族といった血縁関係、そして地域コミュニティー等があった。
地域の活動の場合に関して言うと、日本だと子供の教育とか、町内会とか、そこら辺で人と繋がることが多かったが、欧米諸国では以前からボランティアを通して繋がっていることも指摘されてきた。
そういった偶然性の強い結びつきから、より精神的な関係性の強い結びつきに時代は動いている。
その中で、自分がどのような役回りを担って生きていくのかを考えることは、人生の質に直結してくることになる。