社会資源を個人の資産に置き換えてみると怖いことになる


もしも毎月私達の口座から10万円が自動的に引き落とされていくとしたら、何もしなければ預金額はどんどん減っていくことになる。

もし仮に収入の金額と支出の金額が一致しているとすれば、自動で引き落とされる10万円の金額の分だけ、毎月口座から差し引かれていくことになるので、もし仮に500万円の預金があるのだとすれば、50ヶ月、つまり4年と2ヶ月で、口座の残高は0になる。

こんなことはシミュレーション上の話で、現実には起こり得ないように感じるかもしれないが、実際にアメリカではクレジットカードで支払いを先延ばしすることによって、似たような状況が起きている家庭が決して珍しくない。

しかしながら、日本人の感覚としては、こういったことはやはり起こりづらく、個人の資産に関して言えば、ある程度コントロールできている人が多い。

しかしこれを社会資本に応用してみると、一気に状況が変わってしまう。



社会資本の危機

社会資本には様々なものがあるが、例えば天然の魚介類は過剰に漁業を行うことによって、どんどん個体数が減って、最悪の場合、特定の種の絶滅という末路に至る。

例えば近年であれば中国がマグロの消費量を増やしたことによって、今後のマグロの漁獲量の見通しが立たなくなり、安定しなくなるのではないかという懸念が報じられている。

参考:日本経済新聞「クロマグロ、絶滅危惧種に指定」

こういった事態は漁業のみに関して言えることではなく、例えば森林であるとか、あるいは農地とか、もっと言えば表土の問題であるとか、様々な場面において同様のことが言える。

そして、どこかの国が、あるいは特定の農家や漁師が、長期的な見通しをもって子孫も環境資源の恩恵を受けられるようにと善意で継続可能な事業をしようとしても、世界全体で見た場合に、乱獲する業者が後を絶たず、結局そういった悪徳業者が巨利をむさぼることになる。

こうして囚人のジレンマさながらのチキンレースが行われ、環境資源はどんどん食いつぶされ、ストックが減ってきた状況にある。

今現在の豊かな暮らしは、そういった過去の遺産を食いつぶすことによって成り立っていることは、人々も薄々感じてはいるものの、おそらく切実な実感はほとんど持っていないのではないかと思う。

過去の例として、マヤやアラサジ、イースター島のような崩壊した社会においては、人口や富が増えて黄金期を迎えてから、急激に環境資源が欠乏し、滅びの道を辿った例が珍しくない。

世界レベルでそちらの道に向かっているとすれば、それはとても恐ろしいことだし、長期的な展望よりも目の前の生活の改善や生き残ること、あるいは先進国に追いつくことを最優先の国策とされる第三世界の存在を考えても、おそらく今後もブレーキをかけることはなく、チキンレースは続いてしまうのだろう。


よく読まれている記事

1位:海外移住の電子書籍を無料プレゼント中

2位:フィリピン永住権、クオータービザを取得完了

3位:マレーシアに移住して分かった生活費・ビザ・仕事・食事の現実



メールアドレス

ページの先頭へ