私が海外に住むようになってから意識してきたことの1つに、モビリティーの向上というテーマがある。
これは言い換えると、身軽さを高めていくということにも繋がり、いつでもどこにでも旅立てるのが理想形になる。
そう考えてみると、持ち家を所有するとか、豪華な家財道具、ブランド物のソファやテーブル、椅子等を持つことによって、それらを放置して有事の際に逃げることができないのは、マイナス以外の何物でもない。
例えば、日本に家を所有する場合であれば地震が来るかもしれないし、場所によっては津波だったり土砂崩れだったり、様々な問題が発生する可能性がある。
現在であれば、フランスやトルコをはじめとして、ヨーロッパの情勢が非常に緊迫しており、ピリピリした空気が漂っているであろうことは、遠く離れた地からも伺える。
さらに言えば、タイにおいても、イスラム国がメンバーを送り込んでいたことが判明し、ざわついている。
遠く離れた東南アジアにまで、こうして戦火の種火がまき散らされているというのは、かなり落ち着かないところではあるし、世界各国に不穏な空気が蔓延してはいるが、やはりリスクが高い場所、低い場所というのは存在する。
1つの理想に固執しない
そう考えてみると、仮に理想とする国に住めたとしても、そこがいつまでも世界の中で一番だと思えるかどうかは分からない。そうなって来たときに、身軽な状態を保っておけば、暫定的な判断で常に移動をすることができる。
普遍性や永続性を求めるのは人間の根本的な欲求の1つだとは思うが、その一方で千年王国すらヴァチカンとかつてのベネチアぐらいしか達成できていないという事実もあり、永遠どころか、千年の間すら人間は1つの国家を保つことができないというのが、歴史を見れば証明されている。
そう考えれば、人生という長いスパンを自分の思考や判断のもとで読み切れるものだとうぬぼれるよりは、状況が変わったときにフットワーク軽く移動できるようにしておいた方が、私のような凡人にとっては妥当なのではないかと考えている。
もちろん何十年先の世界情勢や、自分自身のことまで見通せるような天才であれば話は別だが、多くの人にとって20代の頃に思い描いていたのと、30代になってからでは、10年後の生活設計すらも全然違っている。
ましてそれが20年30年先のこととなると全く見当も付かなかったりするし、不惑の年齢になっても惑い続けているのが人間の実際のところなので、そういった状況に対応できる力として、モビリティーを上げておくのはいいのではないかと思う。
技術的な追い風も
何よりも、そういった生き方を支援してくれているかのように、テクノロジーも発展している。例えばパソコンを見れば、自宅でしか使えないデスクトップからノートパソコンに主流が移行し、さらにはスマホやタブレットによって仕事をしている20代の若者もでてきている。
以前であればパソコン1台で仕事をするスタイルが時代の最先端のようにもてはやされていたが、もはやスマホ一つで仕事を完結させている人すらいるので、そうなると手のひらサイズの機械のみで生きていけることになる。
電話にしても、固定電話から携帯電話に変わり、1つ所に留まらなければいけない必然性はどんどん薄れている。
働き方にしても、会社に属するのが当たり前だった時代から、個人が活躍する時代に、ゆっくりとだが変遷しているし、そうなってくると、もはや立派なオフィスを構えてそこで仕事をする必然性もなくなり、ホテルやカフェで仕事をしても構わなくなってきた。
モビリティーの重要性は、有事の際にこそより強く発揮されるし、今の世界に漂う暗い影のことを考えると、そういった避難先の確保というか、そもそも避難できる状態の確保の重要性は今後ますます高まっていくのかもしれない。
幸いなことにアーユルヴェーダで見たときにヴァータの性質である私にとっては、1つの場所にこだわる性質がもともと備わっていない。
むしろ目新しいものに興味が移っていくのが性格の本質にあるので、モビリティーをあげて身軽になっていくのは、本来の性質ともマッチしているらしい。