
国民年金や厚生年金について、消えた年金問題や運用の圧倒的な利回りの悪さなど、様々な面から将来の不安に対する憶測が噴出している。
それじゃなくても日本は財政難だし、世代間の助け合いの側面を持つ年金の賦課方式が、人口減少と現役世代が減っていく少子高齢化の今後において機能するかどうかも疑問視されている。
積立方式であれば、自分が積み立てた金額を将来年金として受け取ることができるというシンプルな考え方になるが、賦課方式の場合であれば現役世代が払った分については、そのときに年金を受給できる世代がもらうことになる。
今のように現役世代が受給者に対して比較的多い状態ならまだしも、今後受給者の割合が高まるにつれて、一人で支えなければいけない老人の人数は否が応でも増えていく。
そもそも長期的に見ると年金の運用の利回りが、世界の株式や経済の成長率よりも低いという決定的な問題もあり、年金を納めない人も3割〜4割いるといわれている。
海外居住者であれば、そもそも国民年金を納める義務自体がないが、日本に住んでいる場合であれば国民年金の納付は義務であって、本来的にいうと選択肢がないという面倒なことになっている。
少なくとも国民年金や厚生年金だけでは信用出来ないとして、日本版の401系を採用している人もいるし、香港などで長期積立をすることで自分年金を私のように作っている人もいる。
香港やマン島のようなタックスヘイブンであり、なおかつ金融立国であるところを利用することによって、世界的に見ても高い利回りの恩恵をうけることができるので、生まれた国のシステムに100%依存するという思考停止型の選択をする必要はない。
しかしその一方で、将来についてあれやこれやと悩みすぎ、心細さで備えばかりをしているうちに年をとってしまうのも本末転倒な話。
本来的に言うと、世界は理不尽で不条理だし、未来がどうなるかは誰も知らない。
悲観論で曇る判断
悲観論や陰謀論は常にどこかを漂っているし、預金封鎖やハイパーインフレ、国家破綻等も誰かしらが常に指摘しているし、ちょくちょくそういったテーマで書かれた経済書がヒットしたりもするが、そういった本の著者が一貫した主張をしているかというと、必ずしもそうでないということが経過を観察していると理解できる。悲観論や楽観視にかたよることなく、中道の精神を保っていくのがベストだと思うが、何よりも言えるのは、いつ死んでも悔いが残らないくらいの生き方をすることではないかと思う。
お金の心配だけではなくて、老後には様々なリスクが介在してくる。
例えば健康の面を考えても、糖尿病になって食事制限をされ、好きなモノを食べられなくなるかもしれない。
あるいは腰痛や膝の痛みが激しくなったり、その他の様々な病気によって満足に歩くこともできなければ、旅行に行って満足に楽しむことも難しくなる。
定年後に各国を回ったり世界一周クルーズに出て楽しむ人もいるが、そういったアクティブシニアになれる保証などどこにもないことは考えておく必要がある。
治安悪化の懸念
国の治安についても大きく変わるかもしれないので、マイホームを買ったとして、将来的に辺り一帯の治安が悪くなり、引っ越さないかぎり危険に見舞われたり、あるいはスラム化された風紀の悪いところに住み続けなければいけないリスクだってある。実際、日本の地方自治体のうち896に及ぶ地区が消滅する可能性があるという話も、日本創生会議の人口減少問題検討文化会の推計によって明らかにされている。
人口が減ってくるということは、それだけ空き家が増えることで、商業施設にしろ、あるいは個人の住宅にしろ、放置されたままになり、そこにホームレスや不良が住み着くことは当然出てくる。
そうなってくると、地域全体がスラム化してしまい、以前にニューヨーク市が割れた窓ガラスを修復することによってバンドワゴン効果を用いて治安の改善に成功したのと真逆のことが起こることは十分に考えられる。
様々な未来を想定することはできるが、大前提として存在するのは、未来予測は大抵の場合において正しくないということ。
そうなってくると、未来についてある程度の備えをした後は、なるようになるというケセラセラの精神こそが、余計なストレスを受けずに適切に生きる道になるのではないか。
かと言って、もちろん年金も納めず、自分で貯金したり資産を作ることもせず、ただ単に年を取っていくのは無防備に過ぎないので、バランス感覚が必要であるということは言うまでもない。