大道芸を習わせることは子供の身を助けることになるのか?


フィラデルフィアを歩いていたら、けん玉をやっている子供がいた。

観客が2人いて、和やかな雰囲気で話をしていたところを見ると、この後少年はチップを得ることができたのかもしれない。

正直、けん玉が珍しい遊具ではない日本人から見ると、特別パフォーマンスがうまいわけでもないし、技術的に優れているわけでもなく、器用な子供であれば普通に行えるのではないかと思う程度のレベルだった。

このケースにだけ言えることではないが、大道芸が盛り上がっているかどうかは、必ずしも技術的な良し悪しだけではなく、むしろパフォーマンスやコミュニケーションがうまいかどうかの方が重要な意味を持っている。

これは各地で大道芸を実際に見てきて感じたところ。

特に観客を巻き込むことができるかどうかは決定的な要素になるので、その部分がダメだといくら技術があったところでうまくいかないことを感じている。

最終的にはチップを得られるかに直結してくる点だし、この部分は性格的な問題であるとか、技術的な熟練度とか、色々な要素がからんでくる。

それはそうとして、さすがに何も芸がない状態で勝負をするのはかなり厳しいので、ジャグリングであるとか、綱渡りとか、何かしらの技術があることは前提。



場所を選ばずに収入を得る手段としての大道芸

大道芸は世界のどこでも行っているものだし、ある意味で言うと、労働許可等がなくても非公式に行うことができるので、ビザのことを気にせずに小銭を稼げる方法であるとも言える。

そう考えてみると、場所の自由を得ながら収入を得ることができる手段ではあるし、いざという時の為に身を助ける手段として、何かの技術を1つぐらい子供に身に付けさせておくというのも、何かあった時のためのライフラインを確保するための手段として、それはそれでありなのかもしれない。

もちろん性格的に向く向かないということもあるので、必ずしもそれが役に立つとは限らないし、大きな収入を得るための手段としてはあまり適していないとは思うが、とりあえずの日銭を稼ぐとか、そのくらいのことはできるはず。

いざという時の生活手段を持っているかどうかは、今後の日本人にとって意外に重要なことではないかと思う。

経済が発展していた上り調子の時期とは違って、今後はますます失業者や低所得者層が増えていくわけだし、そういった社会的弱者と呼ばれる立場に転落した時に国に頼るしかないのか、それとも社会保障に守られていなくても、自力で食っていくことができるのかは、かなり重要な違い。

日本人の大部分は、収入を得ること=人に雇われることだと思っている。

しかし、自然の摂理から考えれば、自主自立が当然の前提だし、それができなくなった段階で、生物としての限界を迎えるのが本筋。

そういった意味でいうと、本業として自分が生きていく手段を確保するのは大前提ではあるが、子供の教育のように今後どうなるかわからない部分に関しては、保険をかけておく意味で、金額が大きくはなくても収入を得られる手段をいくつか確保しておくのは、リスクヘッジのために無意味ではないように感じる。


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