フリースクールという試みは成功するのか


登校拒否の生徒等を募って、フリースクールを開催することが日本でもすっかり定着した。

確かに、学校に行くことについて問題を抱えている生徒を、無理矢理登校させることが得策とはとても思えない。

学校が社会の縮図だという話もあるが、社会は非常に多様性に富んでいて、様々な選択肢がある。

例えば人によってはサラリーマンやフリーターとして人に雇われて生きるが、またある人にとっては、独立をして一人で地道に暮らしていくこともある。

フリーランスでやっていく人もいるし、小規模な起業を繰り返す人もいる。

さらに言えばリーダーシップをとって、どんどん社員を雇い、経営者として天賦の才覚を発揮する人もいれば、専業主婦として家庭に入り、外とのかかわりをあまり持たないで満足して人もいる。

これはどの生き方が優れているとか、劣っているという話ではなくて、様々な選択肢があることが前提になっていて、他人とのかかわり方も、様々であるということ。

それにもかかわらず学校ではヒエラルキーの作り方もだいたい全国で共通しているし、周りから評価されるポイントも、主に5つぐらいに絞られてしまう。

例えば、社交性や人気があるとか、勉強ができるとか、スポーツができる、あるいは異性にモテるとか、そこら辺の項目によって評価されるだけで、決して複雑性のある組織ではない。

そういった意味で、学校という道から外れたところで、別に大したことがないというのは事実だと思う。



フリースクールも万能の解決策にはなりえない

フリースクールという場を用意して、そこに通わせれば必ずしも解決するという問題でもない。

社会性を持たせるためには他者との関わりは必要だと思うが、必ずしも同年代の子供たちと触れ合わせることが必須であるとは思わないし、逆に言えば、田舎に住んでいる場合のように、周りに同世代の人間がほとんどいないケースも十分に起こり得ること。

しかしながら、そういった僻地の人々の心が歪んでいるかと言えば、決してそんなことはない。

むしろフリースクールに負の空気が漂っているとか、単純に肌に合わないという場合であれば、そこに行くことも拒否したらいいのではないかと思う。

ただし、ここで問題なのは、子供の教育の話だけではなく、実際問題として親の都合であったりとか、社会の受容性も考えなければいけないということ。

例えば、小学1年生の子供が、年中家にいるということになれば、親も付きっ切りで関わらなければいけなくなる。

しかし、両親が共働きなのであれば面倒を見ることはできないわけだし、社会としても小さな子供が平日の午前中からうろうろしていたら、学校をさぼっているとか、様々な偏見で見ることになる。

そうなってくると、結局フリースクールのように子供を一律で集めておく場所が、社会的コストの観点からも必要ということになってしまう。

これは子供の都合というよりはむしろ大人側の論理で、学校でも保育園でも塾でもいいが、とりあえず子供たちを一か所に集めておきたいというのは、ある意味で言えば現代社会が要請するところでもある。

しかしながらそれによって、より追い詰められることになった一部の子供たちは、ますます行き場を失うリスクも頭の片隅に置いておく必要がある。


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